あの日、福島市ではM9の震度6は5分ほど続いた。地震が終わると急に吹雪になり、人々は屋外に出て余震と風雪に震えた。

 事務所、家とも家財がグチャグチャ。電気電話は1日、水道は8日間止まったが、ガスは止まらなかったように思う。1日目の夜、郡山市にいた次女が8時間かけ25:50に戻り、余震の中、家族は服を着たまま居間で寝る。居間の寝室化は2週間続いた。

 その後、福島第一原発の相次ぐ水素爆発。被害拡大に備え、家族全員の避難先を確保、移動と連絡手段を決め、メモを各自が持ち歩いた。

 一方事務所では3日目から施主への連絡、訪問を開始。今まで他県震災で3回実施経験のあった応急危険度判定の要請もあったが、事務所設計物件確認とガソリン不足により対応できず。無念。その間、知人・友人から水や食料が届けられ、我涙腺はゆるくなる。

 その後、①国交省「すまいるダイアル」の調査・相談員等の被災建築相談を行いながら、②避難施設のボランティア活動をし、③応急木造仮設住宅の提案、計画、建築を行い、④復興イベントに参加し、⑤復興住宅計画案を作り、⑥復興をテーマとしたグットデザイン賞受賞など・・と、振り返るといろんな事があった。

 いま僕らは生き残った。そして思うことは・・・、イメージ出来ないくらい福島での震災被害はたいへんだが、いろんな人々の優しさに触れられた側面もある。そして非常時における建築家の無力を感じたのだが、だからこそ結束しなければならないことを知った。建築人としてだけでなく人間としての修行の日々。いまだ混乱は続くが、この危機に立ち合った者の責任として復興を見とどけなくてはならない。


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