もう古臭い話で恐縮だが、真新しいA1サイズのトレーシングペーパーを平行定規に張り、スケッチをもとに図面のレイアウトに時間をかけていた頃と比べ、図面の元になる基準線を置くのに神経を尖らせることがなくなった。というのも、CAD上ではレイヤ(層)をまたいで幾重にも鉛筆の線を重ねることが可能で、あたかも宙に線が浮かんでいるがごとくトレーシングペーパーはいつまでも白紙のままで移動や複写が可能だからだ。
 自室の片付けをしていて、今は使っていないT定規を発見して、つい数年前(鯖読みです20年前くらい)はそれだけ時間をかけていたことを思い出したのだ。
 そもそも学生の頃はケンチクの図面に対する価値をそんなところからも感じることができた。名の通った建築家の図面展示などを見て、書いては消した跡の残る清書図面から受ける図面の製作過程に対して、ある種の美しさを見ていたように覚えている。
 それはスケッチに表現されたうちの一本の線が、意思を携えながらも限定された表現の場で、各々の役割がつながりひとつに結集するべく置かれる。そんな計算や思考が図面に反映されているということだった。いまスケッチ展に足を運ぶ人が多いのはそういったことなのだろう。スケッチは全体を見なければ描けない。